Murdoch マードック(英、アイルランド、スコットランド)
概要
中世のゲール語の男名Muredach、Murdac、Murdocに由来するが語源不明。ゲールmuireadhach「水夫、君主」と関係づける説など有り。
詳細
Roger Murdac(1130年Yorkshire)1
Sibilla Murðac(1197年Gloucestershire)1
Sarah Murdock(1680年Canterbury(ケント州))2

父称姓。異形にMurdock等。米国の実業家キース・ルパート・マードック(Keith Rupert Murdoch:1931.3.11 Melbourne(オーストラリア)~)の姓。 語源がよく分かっていない名前である。8世紀のマンスター(Munster)の王にこの名の人物がおり、Muredachと綴られている。更に、様々な 年代記でこの人物はMurdauchMurochatMurthecといった綴りで現れ、その他の文献史料ではFordunやBachananがMuirdacus と、BocceはMordacusと、O'FlahertyはMuredachusと、アルスター年代記(the Ulster Annals)ではMuireach 3、スコットランド=ゲール語の詩ではMureadhaighと記録されている4。 この王は736年に亡くなり、王位を息子のEoghan(Ewan)が継いだ4。『ドゥームズデイ・ブック』(1086年)では ヨークシャーの人名にMurdacMurdocMeurdochが見え、これはアイルランドからヨークシャーに襲来したノルウェー人に よってもたらされたものとされている5。この男子名は、スコットランド=ゲール語の男名ムリャアッハ(Muireadhach)の 語源にもなっている。

これらの男名は、「君主(lord, soveraign)」、或いは「水夫(mariner, seaman, sailor)」の意味を持つアイルランド語、又はスコットランド= ゲール語のmuireadhachという語彙と関係付けられている。この名詞は英語によるアイルランド語やスコットランド=ゲール語の 辞書にしばしば見えるが、はっきりした素性が明らかでない。以下に各辞書の掲載部分を写真入りで挙げる。


●ウェールズの自然学者・植物学者・言語学者ルイド(Edward Lhuyd)の『グレート=ブリテン島先住民の言語・歴史・習慣に関する報告』(1707年)中の アイルランド語辞典
†muireadhachの語が†マーク付きで掲載され、soveraign「君主」(sovereignの古い異綴)と意味が書かれている。また、現在もアイルランド語や スコットランド=ゲール語で「君主」を意味する一般名詞tighearna(現在のアイルランド語の正書法ではtiarnaと綴る)が併記されている 6。muireadhach gach meannattaはtighearna ar gach ionad「全地域を統べる君主」とも表現される事が書かれており 7、彼はmuireadhachとtighearnaが同義語と見なしている。本語はルイドが1697年以降にウェールズやアイルランド、 スコットランド、コーンウォール、マン島等を旅行した際に蒐集したケルト系諸言語の語彙を収録した辞典内のアイルランド語=英語辞典の中に見える。


●オブライエン(John O'Brien)のアイルランド語=英語辞典(1768年)
ここでは二つの同音異義語muireadhachが掲載されている。最初のmuireadhachには"男子名。「水夫」を意味する"とあり、二番目の方はルイド 辞書に見える「君主(sovereign, lord)」の語義が与えられている。因みに直前のmuireach「水夫、船員」の語はマレー(Murray②) 姓の語源となった語である。


●ショー(William Shaw)のスコットランド=ゲール語=英語辞典(1780年)
やはり、二つの同音異義語muireadhachが掲載されているが、それぞれ男子名と「君主(sovereign)」の意の用法説明となっており、 「水夫、船員」の説解が無い。


●マクファーレン(Patrick MacFarlane)のスコットランド=ゲール語辞典(1815年)p.92
muireachの解説にあるM□rdacus(二番目の文字はかすれて判読不能)の語は、恐らくマードック姓の語源となった男名Muredachのラテン語化形であろう。 「君主」「水夫」の意味のmuireadhachの語は掲載されていない。また、muireadh「ハンセン病」という語が現れている。


●アイルランドの古典学者オリーリィ(Edward O'Reilly)のアイルランド語=英語辞典(1821年)
ショーの辞書と同様の用法説明がされた二つの同音異義語muireadhachが掲載されている。興味深いのは男名Muireadhachに併記された Moroghなる語形だろう。これは英語による音転写形を指したものとみられる。更に興味深いのは、その数段前に見えるMuircheartachと、 その英語化形とみられるMurtoghの併記である。Muircheartachはモリアーティ(Moriarty)姓の 語源となったアイルランド語の男子名で、逆に併記されたMurtoghという名は、むしろMurdochやMuireadhachの系統に属している。


●アームストロング(Robert Archibald Armstrong)のスコットランド=ゲール語辞典(1825年)
muireadhachの語は未掲載。逆にそれまでmuireadhachが担っていた「君主(sovereign)」の意味までもが、†mùireach「水夫」 (†が付されているので、ここでは廃語と見なされている)の語に吸収されている形となっている。また、今まで掲載されていなかった mùireach「ハンセン病患者」,mùire「ハンセン病、乾燥したかさぶた」の語が見える。


●マクラウド(Norman Macleod)のスコットランド=ゲール語辞典(1831年)
「水夫」や「君主」といった意味の語は未掲載。


●1821年オリーリィのアイルランド語=英語辞典のオドノヴァン(John O'Donovan)による改訂版(1864年)
1821年版ではmuireadhachが人名用法と「君主」の意味の用法とで二つの見出し語に分けられていたが、改訂版では一つにまとめられた。 奇妙な事に、「(女性の)人魚(mermaid)」の語義が追加されている。「水夫」からの転義なのだろうか?、ちょっと無理があるように思えるが。 数段下に掲載されている似た様な綴りのmuirgheilt,muirimhgeach「(女性の)人魚」と何か関係がありそうではある。


●ディニーン(Patrick Dinneen)のアイルランド語=英語辞典(1904年)p.501
muireach「水夫」の語が見えるが、「君主」の語も「ハンセン病」の語も見えない。

これらの辞書の情報から、muireadhachという語はあまり広い範囲で普遍的に用いられた語ではないのではないかと感じられる。リーニーによれば 古ウェールズ語でもMordoc5という、明らかに同語源と考えられる名前が存在していたようだが、その語源と思しき ウェールズ語の単語は確認できない。ゲール語で「水夫」や「君主」の意味のmuireadhachの初出時期は不明だが、既出のように男子名Murdochは遅く とも8世紀に確認されている為、muireadhachを直接結びつけるのは少々強引な印象を受ける。

また、muireadhachが「水夫」の意味であるならば、前半要素muir-がアイルランド,スコットランド=ゲールmuir「海」8を 語源とすると見られるが、後半要素-eadhachの起源は全く不明である。「君主」の語義は、「水夫」→「水先案内人」→「指導者」→「君主」の様な意味変化を 経たもの、或いは比喩表現に因むもので、結局は同語源ではないかと考えられる(マルピコス注)。古い人名Muredachの後半要素に関しては、 スコットランド=ゲールàdhach「繁栄している、幸運な、幸福な、運の良い」*4(アイルランド,スコットランド=ゲールàdh「繁栄、幸運、幸福」から派生)に 由来するとの説も見られるが9、-r-と-d(h)-の間に母音が見られない語形も多く記録されているため、首肯し難い。 Murdac等の古い形からは、語末部分の-acが指称辞であった可能性も否定出来ず、語源は不明な点が多い。今の所、18世紀以降の辞書でしばしば 採録されているmuireadhach「水夫;君主」という語と関係づける従来説に従っておく事にする。
[Reaney(1995)p.317, Bardsley(1901)p.547, Harrison(1912-1918)vol.2 p.32, ONC(2002)p.443, Lower(1860)p.233]
1 Macleod(1831)p.5 なお、本語はアイルランド語の辞書には掲載されていない。
2 Bardsley(1901)p.547
3 本来語中間ほどにあるはずの-d(h)-が失われた語形である。出典もとの記述では"-d-は沈黙(quiescent)"としており、 緩音化による消失と見ているようである。
4 George Chalmers "Caledonia, Or an Account, Historical and Topographical, of North Britain."(1807)p.294
5 Reaney(1995)p.317
6 Edward Lhuyd "Archaeologia Britannica."(1707)p.369
7 meanattaはスルイドのアイルランド語辞書では見出し語†meannad「場所(place)」(p.387)の語で見える。meanodの綴りも確認される。 現代アイルランド語のionad「場所、地点、地域」(<古アイルランドinad「場所、地点」)と、どうも関係のある語のようだが(語頭のm-は 前置された語のかつて存在した語末音によるリエゾンか?)、アイルランド語は私は殆ど無知なので何とも分からない。gachは(中)アイルランド, スコットランド=ゲールgach「全ての、あらゆる(every each)」(<古アイルランドcach:同義のウェールズpobと同語源)。arは英over,ラsuperと 同語源の前置詞で、「~の上に」の意。
8 Macleod(1831)p.421、O'Reilly et O'Donovan(1864)p.371
9 Harrison(1912-1918)vol.2 p.32

更新履歴:
2015年2月9日  初稿アップ
PIE語根Mur-doch: 1.*mori-「湖、海」; 2.語源不明

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