Guillaume le Saisne(1234年Feuguerolles-Bully(カルヴァドス県))1 Nicolas Le Caisne(1264年Péronne(ソンム県))2 Guillaume Le Cesne(1418年Ménilles(ウール県))3 Paul Le Cesne(1654年Orbec(カルヴァドス県))5
ニックネーム姓。フランスのセスネ(Cesné)姓の米国における対応形である。それぞれフランス語と英語での音発達によって、語形が
分岐していったと見られる。ミシガン州ウェイン(Wayne)郡に1800年にジョン・シスナ(John Cisna)という人物が生まれているが、
彼の姓はCissneとも、Cessnaとも綴られている5。航空機メーカーのセスナ社を創立したクライド・ヴァーノン
・セスナ(Clyde Vernon Cessna)は、1879年12月5日アイオワ州モントゴメリー(Montgomery)郡ホーソーン(Hawthorne)の生まれ。以下、
彼の家系図を乗せるサイトの記述によれば、先祖は次の通り6。その父ジェームズ・ウィリアム(James William C.
)は1856年12月17日オハイオ州中西部のハーディン(Hardin)郡に、ジョージ・セスナとその最初の妻ジェマイマ(Jemima(旧姓Beem))の
第二子として生まれた。ジョージ・セスナは1828年3月30日にペンシルベニア州カンバーランド(Cumberland)郡シッペンズバーグ
(Shippensburg)にウィリアム・セスナの第二子として生まれ、ウィリアムは1777年1月10日に同地でジェームズ・セスナの第七子として生まれ、
ジェームズは1751年4月にジョン・セスナの第十子として同地に生まれ、ジョン・セスナ(John Cessna)は1692年にアイルランドで生まれた。
ジョンの父親はフランス人のジャン・ド・セスナ(Jean De Cessna)という名の伯爵で、ユグノー(Huguenot)であった。ジャンは1670年にフランス
北部のノルマンディー地方で生を受けている。彼の名は、Jean De Cisney、Jean De Cesne、Jean Le Sesneの綴りでも記録されている。ノルマンディーの
貴族リストにde Cesneという家名が1688年に記録されている。1685年10月18日にフランス国王ルイ14世が発令したフォンテーヌブローの勅令
(Édit de Fontainebleau)により、プロテスタントの権利を保護していたナントの勅令が廃止された為、ユグノーであったジャンは南フランス
に移動しそこで暮らした7。英国で名誉革命(1688-89年)が起きると、カトリックのイングランド王ジェームズ2世とプロテスタントの
ウィリアム3世(オラニエ公:この革命によってイングランド王に即位)との間で戦乱が起き、アイルランドが戦場となった。ジェームズ2世には同じ
カトリックのフランス王ルイ14世が加勢し、ウィリアム3世には新教徒のドイツ出身のションベルク公マインハルト(Meinhard von Schomberg)
が加勢した。このションベルク公の下で陸軍大尉(captain)としてこの内戦に参加したのがジャン・ド・セスナで、ボイン川の戦い(1690年
7月12日)で戦っている。この戦いの前後の出来事なのかは不明だが、同じ年にアイルランドの二十歳位の女性8と結婚し、戦争後も彼は
アイルランドに居残った。1692に第一子である既出のジョン・セスナが2人の間に生まれ、その後も三人の男児に恵まれた。後1709年、若しく
は1718年に家族そろって渡米し、ペンシルベニア州ランカスター(Lancaster)郡に居住、ジャンは皮革業者(skin dresser)・革なめし業者
(tanner)を営んだ。後、ジャンはヨーク(York)郡に移住し、1751年同地に没した。
所で、上掲の姓の古形で挙げた最初のGuillaume le Saisneの場合、語頭がS-で現れており、
この綴りの方がオリジナルであるならば、仏Saxon「(ドイツ北部に居住したゲルマン系民族の)ザクセン(サクソン)人」(同義の英Saxonはフランス語
からの借用)と同語源の可能性がある。仏Saxonは後期ラテン語のSaxonēs≪複数形≫「ザクセン人」の借用で、更にはゲルマン*Saχsōn-「ザクセン人(原義
「ナイフの(民)」)」(cf.メッサーシュミット(Messeschmitt))に遡る。このゲルマン語がフランク語を経由してフランス語に経由されれば、
古フランス語期までには*Saisneという形は規則的に導かれる(古仏以前(800年以前)にガリアの俗ラテン語は、子音クラスター-ks-は
-js-に転訛している)。類例はエーヌ川(Aisne)と、そのラテン語形Axonaとの間にも見られる。つまり、Guillaume le Saisneという
人物の姓は、「ザクセン人」を意味する渾名に因むとも考えられる(あくまで、語頭綴り字S-が語源的であることが前提)。但し、古仏*Saisne
「ザクセン人」という単語は文献上記録が無いらしく、ゴドフロワの古仏辞典にも見えない。
正直、上の二つの説のうち、どちらが真実かは不明。1234年のle Saisne姓と1264年のLe Caisne姓は、互いに別々の起源を
持つ語源上無関係の姓かも知れない(-ai-という母音表記から、後代の仏姓Cesnéとは両方とも無関係の可能性すらある)。取り敢えず、
モルレの説に従って「白鳥」説を採用する。尚、苅部恒徳著『英語固有名詞語源辞典』(2011)のCessna項(p.54)に、大変興味深い記述がある。
それによれば、米姓Cessnaをフランス語起源とした上で、更に疑問符付きではあるがドイツ語のKästner「穀倉管理人・財務官」に遡るとしている。この解釈は他書には見えないので、苅部氏の
オリジナルではないかと私は思う。ただ、フランス語では軟口蓋破裂音[k]が前舌母音(i, e等)の直前にあった時に硬口蓋化して歯茎破擦音
[ts]に転じる現象は俗ラテン語期に、更に[ts]から歯茎摩擦音[s]への音韻変化は1250~1300年頃に完了している為、早くても12世紀に
独姓Kästnerがドイツで登場し、それがフランスに借用されたとしても、[k]→[s]の音変化が急激に起こったとするのは、私は無理だと思う
(だから、疑問符付きなのだろうけれど)。
[Morlet(1997)p.138]
◆古仏ci(s)ne,cigne「白鳥」(>仏cygne)←中ラcīcinum←ラcygnus,cycnus「白鳥」(ラングドックcicne,伊cigno,コルシカcignu,ラディン,
ドロミテzign,フリウリcign,cesen,西,葡cisne,アラゴンzisne,カタルーニャcigne,マルタċinju,cinja)←ギkúknos「白鳥」←PIE*kuk-no-
(ゼロ階梯+形容詞・名詞形成接尾辞)←*keuk-「白くなる、輝く」(サンスクリットśócati≪3・単・現≫「光る、輝く」,śuk-rá-「明るい、光る、
白い」,アヴェスタsuxra-「光を発する」)10。ボワザックは古教会スラヴsokolŭ「隼」(cf.露姓ソコロフ(サカローフ)
(Sokolóv))も同じ語根に遡らせているが、疑問。
1 Société des antiquaires de Normandie "Bulletin de la Société des antiquaires de Normandie. vol.38"(1928) 2 Jules Dournel "Histoire générale de Péronne."(1879)p.371 3 M. Charpillon "Dictionnaire historique de toutes les communes du département de l'Eure. vol.2"(1879)p.517 4 Louis François Du Bois "Histoire de Lisieux."(1845)p.429 5 "Daughters of the American Revolution magazine."vol.119(1985)p.496 6 http://familytreemaker.genealogy.com/users/s/u/t/Diana-Sutor-Greenwood/PDFGENE2.pdf この記事は様々な文献を元に作られて
いる。中にはCessna家の人たち自身が書いたものもある。 7 サイトによれば、南フランスの恐らくBeaujenという場所に住んだとある。然し、この地名はフランスには存在しない。恐らく
ボージュー(Beaujeu)というフランスに3ヶ所在る地名の誤謬と思われるが、確証は無い。尚、三つの内、仏南東部アルプ=ド=オート
=プロヴァンス県のBeaujeuが唯一南部といえる場所に在る。 8 この女性に関しては1670年にアイルランドに生まれ、1724年以前にペンシルベニアで没している事意外は詳しいことは知られておらず、
ファーストネームも不明である。 9 英語語源辞典p.313(cygnet「白鳥の雛」項) 10 英語語源辞典p.313、Boisacq(1916)p.532、Chantraine(1968-80)p.598、Watkins(2000)p.41、
Pokorny(1959)p.597
執筆記録:
2011年7月20日 初稿アップ