①父称姓、ニックネーム姓。古高独wunna「大喜び、楽しみ、快楽、幸福、至福」
1,中高独wunne
「喜び、楽しみ、(無上の)喜び」
1(>独Wonne)を第一要素に持つ様々な古いドイツ人の男名(Wunnibald
2、Vunifrid
2,Wunnileif
2等)の
短縮形に由来する男名ウノ(Wunno)
2に、指小辞-toが付いて生じた男名ウォナト(Wonat)
3に由来する。又、どの苗字本にも指摘が無いが、中高独wunne「喜び」の異形wund(e)
4に由来し、「喜んでばかりいる人」を表す姓の可能性も有る。
[Gottschald(1982)p.537]
Berthold der Wunde(1353年Leutkirch)
5
②ニックネーム姓。中高独,中低独wunt「傷ついた、負傷した」
6(>独wund)に由来し、
「手や足を失った不具の人」を表す姓。
[Bahlow(2002)p.565,ONC(2002)p.673]
Adelheid von Wundeck(1345年5月25日)
7
Reinhard von Wundeck(1404年5月26日Heidelberg)
8
Franz Carl Wundegg(1666年Klagenfurt)
9
Claudius de Wundegg(1735年Birkfeld(シュタイアーマルク州))
1
③地名姓。ドイツの心理学者ヴィルヘルム・ヴント(Wilhelm Wundt)の姓の由来は又別である。
彼を排出したプファルツのヴント家は、
17世紀にケルンテンからストラスブール(独Straßburg:仏アルザス)に向かって父・兄弟と共に亡命した宗教難民
アンドレーアス・ヴンデッガー(Andreas Wundegger:生没年未詳)を始祖としている
11。
兄弟のバルタザル(Balthasar)とアーダム(Adam)は父の死後シュタイアーマルクに戻っていった
12。
アンドレーアスは自分の姓を短縮してヴント(Wundt)と改姓し、1636年クロイツナハ(Kreuznach:プファルツ東部の都市)に
住み始め、プファルツの領主であるツヴァイブリュッケン(Zweibrücken)公爵家の主馬頭(シュメノカミ:Stallmeister)の
職を得る。後、スウェーデン王国に主馬頭として仕え、シュトラールズント(Stralsund)で亡くなった。
その息子アードルフ・ニコラウス(Adolf Nikolaus)はクロイツナハで生まれ、そのまた息子ヨハネス(Johannes)も
クロイツナハで生まれ、更にその子のJoh. Jak.はクロイツナハ近郊のモンツィンゲン(Monzingen)で生まれた
13。
オーストリアのケルンテン(Kärnten)州かシュタイアーマルク(Steiermark)州に有ったと見られる地名ヴンデック
(Wundegg)に由来すると思われる(Googleマップ等でも検索出来ないので、喪失地名か耕地名などの小地名であろう)。
地名の古形を確かめられず前半要素の語源は判らないが、後半-eggはケルンテンやシュタイアーマルクに多い地名語尾で
「隅地、角地」といったほどの意味。尚、上掲姓の古形の欄に上げるハイデルベルクの1404年の記録の姓と、
このケルンテンの地名との関係は不明である。アンドレーアス・ヴントの子孫の一人カール・カジミル・ヴント
(Karl Kasimir Wundt:1744~1784)は、奇しくもハイデルベルクの聖ペーター教会(Peterskirche)
14に埋葬されているが
15、これが偶然なのかどうか良く判らない。
Weudegger von Wundegg(1628年Steiermark)
16の姓も確認されていてる。
[Gottschald(1982)p.539]
◆古高独wunna←ゲルマン*wunjō(ō語幹女性名詞)「喜び」(古英wun,wyn(n),wen「喜び、陶酔」,古ザクセンwunnia「喜び」)←
PIE*w

-yā-(ゼロ階梯+接尾辞)←*wen-「望む」(ラvenus「魅力」)
17。上記古英はルーン文字の w音字母Þの名前wen,winとして残る。
◆中高独,中低独wunt「傷ついた、負傷した」←古高独wunt,古ザクセンwund「傷ついた、負傷した」←ゲルマン*wundaz「傷ついた、
負傷した」(古英wund,古ノルドund,ゴートwunds)←PIE*w

-to-(ゼロ階梯+分詞語尾)←
*wen-「打つ、傷つける」 (アルメニアvandem「破壊する」,中ウェールズgweint「(私は)穴を開ける」)
18。英語語源辞典はPIE*w

to-を現在分詞としている。
1 Köbler ahdW. W項p.167
2 Förstemann(1966)p.1664f.
3 Gottschald(1982)p.537
4 Lexer vol.3(1878)p.994
5 Bahlow(2002)p.565
6 Lexer vol.3(1878)p.1000、Lübben(1888)p.599
7 Regesta sive rerum boicarum autographa ad annum usque MCCC(1839)p.42
8 Heraldisch-Genealogische Gesellschaft Adler"Jahrbuch"(1895)p.404
9 Geschichtsverein für Kärnten:Carinthia I. vol.189(1999)p.270
10 Erzdiözese(Salzburg) "Conspectus et status totius Archi-dioecesis Salisburgensis"
(1772)p.285
11 Markus A. Maesel "Der kurpfälzische reformierte Kirchenrat im 18. Jahrhundert:
unter besonderer Berücksichtigung der zentralen Konflikte in der zweiten Jahrhunderthälfte"(1997)p.49
12 Georgii-Georgenau(1879)p.1112 尚、彼らの出身地をシュタイアーマルク
とする文献もあるが(独WikipediaのWilhelm Wundt項等)、ケルンテン出自である。Georgii-Georgenauの指摘では兄弟は
シュタイアーマルクに戻ったと言うが、ケルンテンへの間違いかもしれない。
13 Biundo(1968)p.522
14 http://de.wikipedia.org/wiki/Peterskirche_(Heidelberg)
15 http://www.s197410804.online.de/Personen/WundtKK.htm
16 Otto Herding, Dieter Mertens, Michael Klein "Beiträge zur südwestdeutschen
Historiographie"(2005)p.283
17 Köbler idgW W項p.54、Watkins(2000)p.98、Pokorny(1959)p.1146、Buck(1949)p.1101ff.
18 英語語源辞典p.1579、Watkins(2000)p.98、Pokorny(1959)p.1108、Köbler idgW W項p.54
執筆記録:
2010年11月22日 初稿アップ